私の小さな声のストーリー(前編) 2013.3.14 

 

 子どものころに住んでいた町に少年少女合唱団があって、小学校に入るか入らないかくらいから、そこで歌っていました。

 中学・高校では合唱部に入りましたが、どちらも女子部員ばかりの女声合唱でした。中学の合唱部では顧問の先生が、文化祭前だけ臨時男子部員を運動部から集めてきて、臨時の混声合唱団になりました。男声が入ると、とたんに合唱の声の厚みが増して多彩になり、気持ちよかったのを覚えています。

 

 大学では、入学して間もないころ、先輩たちにうまく勧誘され、混声の合唱団に入団。6070人くらいの規模で男女が半々くらいでした。

 1回生の半ば、先輩たちから指揮者に指名されました。各回生に1人ずつ指揮者がいて、2回生で孫指揮者、3回生で副指揮者、4回生で正指揮者になります。

 

 大学合唱団の中には、正式な技術顧問の先生がいて長年その合唱団を指導しているところや、ヴォイストレーナーの定期的な発声指導を受けているところなども多くあります。でも、私の合唱団には顧問の先生はおらず、せいぜい年に2~3回、声楽家の先生にヴォイストレーニングに来てもらうだけ。もちろん先生が来て指導してもらったときには声がよく出るようになりますが、残念ながらそのときだけでした。

 それに、合唱団の先輩指揮者たち(私が孫指揮者のときには上に副指揮者・正指揮者がいる)は実に謙虚で、指揮法や発声のことをほとんど教えてくれませんでした。

合唱団では指揮者が練習を指導しなければなりませんから、自分で学ぶ必要があります。

 

1回生の終わりごろ、たまたま部室の扉に「関西学生合唱セミナー」というポスターを見つけました。3日間くらいの宿泊型セミナーで、指揮法や発声の講座がある!さっそく、指揮者の先輩を誘って申し込みました。

そこで指揮法を教えていらっしゃったのが、斉田好男先生。故・齋藤 秀雄の門下生(小澤征爾さんは兄弟子)である斉田先生から、合唱指揮ではなく、オーケストラを指揮する斎藤指揮法を基礎から教えていただきました。

[*のちに斉田先生が出版された『はじめての指揮法』(音楽之友社、1999年)は、2023年現在で17刷、2024年に新装改訂版が出版された人気書]

また、そのセミナーでは、斉田先生が信頼を寄せる声楽家がバス・テノール・アルト・ソプラノ1人ずついて、声部ごとに分かれて発声法の講座もありました。これが指揮法や発声法を体系的に学んだ最初でした。

 

その後も、さまざまな合唱のセミナーに参加したり、自分が「この先生に習いたい」と思う声楽家の先生を訪ねて行ってレッスンを受けたりしました。

また、本で「歌のためにはヨーガが良さそう」と知ると、ヨーガ教室を探して通ったりしました。(当時は今のようにヨーガ・ブームではなく、ネットという情報収集手段もなかったので、大阪市内で見つけた唯一の教室でした。)大学での専門が中国文学だったので、中国本場で達人から太極拳を教えてもらった先生や同級生と、昼休みに外で太極拳をやったりもしました。ヨーガも太極拳も、今で言う、ボディ・ワークです。

 

私の合唱団にちょっと変わった先輩がいて、故・竹内敏晴(劇団の演出家)の著書『ことばが劈かれるとき』や、強烈な地声の合唱「ブルガリアン・ヴォイス」を教えてもらったのも、このころ。その先輩と一緒に、名古屋まで竹内敏晴の1日レッスンを受けに行ったり、来日したブルガリアン・ヴォイスのコンサートを一人で聴きに行ったりしました。

 

 今思うと、合唱団に顧問の先生がいなかったことが、私にとって、とても幸運でした。技術顧問の先生に遠慮せず、どんどん自分で先生を見つけて教えてもらうことができたからです。西洋クラシックの声楽に限らず、話す声や民族的な声、民族音楽にも広く興味を持つようになったのも、そのおかげかもしれません。

でもそれは、今だから言えること。当時は、悩んだり落ち込んだり、試行錯誤の連続でした。

   (中編につづく)

 

私の小さな声のストーリー(中編) 2013.3.15

 

 大学4回生の12月。正指揮者としての最後の定期演奏会でした。

 演奏会当日の2,3日前の放課後。最後の練習が終わって団員が三々五々帰るころ、どんな成り行きでか、私はある団員と11の発声練習になりました。

「もっと喉の奥を開いて!」「みぞおちに指を置いて・・・」など、あれこれやっているうちに、不意にポンと、彼のいい声がとび出してきたのです!何となく残ってまわりで聞いていた数人も、はっきりとその違いが分かり、「あっ、声が変わった!」と言いました。誰よりも彼自身が違いを感じ、「声がバリバリいわない!」と驚いていました。

彼は音感・リズム感がとてもいい人でしたが、声が引っかかる感じがあったのでしょう。いつもはクールな彼が、声が変わったこと、自分のいい声が出たことを、とても喜んでいました。私も、その場面に立ち会えたことが、本当にうれしかったのです。

演奏会の日。私は最後のステージで宮沢賢治の『永訣の朝』(作曲・鈴木憲夫)を指揮しました。演奏会が終了し、ホールを後に打ち上げ会場へ向かう途中、彼が私のところに来て言いました。

「佳代さん、僕、雪が空から、ぶわーっと降ってくるのが見えましたよ!」

 

    あんなおそろしいみだれたそらから

     このうつくしい雪がきたのだ

                  『永訣の朝』より

 

ステージであの曲を歌っているとき、雪が「ぶわーっと降ってくるのが見えた」と言うのです。そして、いつもはクールに構えている彼が、「本番、この曲を歌っているときに感動した」と言うのに驚きました。

彼は、二人で発声練習をして声が変わったときのやり方で、本番も歌ったそうです。そうすると、あのときと同じように声がバリバリしないで歌えたそうです。

そのとき私は、「あぁ、誰でも本当の自分のいい声が出たらうれしいんだなぁ」と思いました。

誰でもいい声を持っていて、ただ普通はそれが表に出てこないだけなのだと、私は思います(パヴァロッティのような一部の人だけが、小さいころから自然にいい声が外に出ているだけで)。その自分のいい声が出たとき、誰でも本当にうれしいのだ、と思います。

 

大学卒業後、勤めるかたわら、一般の合唱団に入りました。そこで指揮者も務めました。

私が友人たちに声をかけ、5人で混声のア・カペラのアンサンブルを結成して、5年ほど活動したことも。当初結成の目的は、1ヶ月後の神戸ヴォーカル・アンサンブル・コンテストの出場でした。私以外は知らない者同士、結成して練習期間はわずかでしたが、ラッキーにも初出場にして金賞受賞。クラシック音楽(合唱曲)がメインのコンテストで、私たちだけが「上を向いて歩こう」や「蘇州夜曲」をスウィング・ジャズ風のアレンジで歌ったりして、審査員はとまどっていましたけれど…。

 

勤めて7年くらいたったころ、「自分の一生の仕事として、声の仕事をしたい」と思うようになりました。その原点は、あの放課後。11で発声練習をしているときに、彼の本当にいい声が飛び出てきた瞬間に立ち会えたこと。誰でもが内に持っているけれど、なかなか出てこられない“いい声”を取り出す“声の産婆さん”になりたい、と思いました。

  (後編につづく)

私の小さな声のストーリー(後編) 2013.3.19 

 

その2年後、声の道を探求するために、10年ほど勤めた職場を退職。ある大学院に入りなおしました。

 

西洋クラシックの声楽レッスンだけでなく、人の話し声にも民族音楽の声にも興味があった私に、その大学院をすすめてくれたのは、声楽家の大森地塩先生でした。

大森先生の発声練習は、私が今までに受けてきたどの声楽家のレッスンとも異なり、今までの発声指導の常識を覆すような内容でした。今思い返すと、フェルデンクライスに共通することや考え方がいくつもあります。

当時、一般の合唱団の指揮者をしていた私に、大森先生はこころよく「この発声練習、使っていいよ」と言ってくださいました。今、私が教える声(歌)のレッスンは、発声練習は大森式発声法です。

 

大学院では、大森先生が「いい先生がいるから」と薦めてくださった先生・長尾義人先生に師事。長尾先生も懐が広く、私が自由に声の道を探索することを許してくださったので、私は声に関して自分が体験したこと、考えたことを、好きなように修士論文にまとめました。その大学院は東京芸術大学(←音楽界の東大)出身の先生が最も多く、またほとんど全員が音楽大学出身の演奏家でもある先生方。論文を審査する教授たちは、私の論文をどう評価していいか分からない、という感じでした。でも、師事した長尾先生が「面白い」と言ってくださったので、それでOK

こうして修士課程を修了しました(「何のために大学院まで行ったんや」と家族に言われます)。

 

ふつう、声楽のレッスンや合唱の発声指導では「お腹で支えなさい」「体を使って歌いなさい」と言われます。(大森先生に聞くと「お腹の支えなんて関係ない」と言われました。)今まで多くの声楽の先生に、それはどういうことですかと尋ねてきましたが、先生たちの答えはまちまち。私にはよく分からない、というのが正直な感想でした。

 

ヴォイス・トレーナーの仕事をする上で、「声のための体の使い方を学びたい」と思い、大学院を修了してからボディ・ワークを探しました。その頃にはすでにメジャーになっていたヨーガや太極拳はもちろん、アレクサンダー・テクニークも本で知って個人レッスンを受けたこともあります。そんなとき、たまたまインターネットで見つけたのが、フェルデンクライス。聞いたこともない名前でした。

 

運よくその年2007年から、西日本初のフェルデンクライス・メソッド指導者養成コースが開講されることを知りました。国際的に活躍する一流の先生が来日して教えるというので、「どうせなら、最初から一流の先生に教えてもらいたい」と、指導者養成コースに参加。4年後の2011年に卒業しました。

 

もともと、声のための体の使い方を知りたくて、フェルデンクライスを学び始めたのでした。でも、先生たちの教えるレッスンを通して、他の人が、体が楽になったり、よりよく動けるようになったりするだけでなく、心(気持ち)にまではっきりと変化をもたらす様子を目の当たりにすると、すごいなぁと思わざるを得ませんでした。

 

声のレッスンは私の興味の出発点ですが、今は、声が核にありながらも、声はもちろんのこと、体や心も含めて楽に自由にする、フェルデンクライスに面白さや魅力を感じています。

最近、「声をよくすること」、「体をよくすること」、「心のありようをよくすること」は、別々に努力することではない、と改めて思います。声がよくなるとき、気づけば体も心も、よりよい状態になっているものなのです。声も体も心も、別の側面であっても、1人の人間のことなのですから。

 

2月から新しく始めた「声のための体の使い方」の講座は、もともと声についての体の使い方を知りたくてフェルデンクライスを始めた私にとって、“こんな講座があったら、私が受けたかった!”と思う内容。また、毎週木曜日にやっている声のグループ・レッスンは、誰でも知っている童謡・唱歌を歌いながらも、私が合唱指導者としてこれまでに学び、蓄えてきたことを、好きなようにアレンジしてお伝えする内容です。

伝えたいことがいくらでもあるのは、とても幸せなことです。誰よりも、私が一番楽しんでいるかもしれません。

 

竹内敏晴は『ことばが劈(ひら)かれるとき』で、「開く」ではなく「劈(つんざ)く」という字を使いました。でも私は、「声の産婆さん」になりたいと思いました。誰でもが内に持っているけれど、なかなか出てこられない“いい声”を取り出す、声の産婆さん。

今は、誰もがもつ“いい声”を取り出すことは、岩戸の奥深く隠れた輝く女神を外に連れ出すようなイメージかもしれない、とも思っています。

(後編おわり)