フェルデンクライス、柔道の創始者・嘉納治五郎と出会う

(1)パリの柔道演武会

 

 モーシェ・フェルデンクライス青年は、パリのソルボンヌ大学で学んでいた28歳の頃、人から「日本の文部大臣の嘉納教授が、パリで柔道の実演をするそうですよ。フランス駐在の日本大使も出席するそうです」と聞いた。

 嘉納治五郎のことも柔道のことも知らなかったが、柔術に関係する実演があると理解し、見に行きたいと思った(パリに来る前、16歳の頃から、フェルデンクライスはパレスチナで柔術を実地に研究し、自己防衛に関する本も出版していたのだ)。

 

 ところが実際に行ってみると、警備員が警備していて招待状を持った人しか会場に入れず、当然フェルデンクライスは入ることができなかった。困った彼はいったん家に帰り、自分がヘブライ語で書いた自己防衛についての絵入りの本を取って、会場の扉に戻った。

 そして自分の名刺に「私が柔術Jujitsuに興味を持っており学んだことがお分かりになると思います。私は、柔道が何であり、どのようになされるか見ることに関心があります。私が柔道の実演を見られるように取り計らって下さませんか」とフランス語で書き、嘉納治五郎宛とした。それを本に添えて係員に渡し、これを嘉納に渡してくれるよう頼んだ。

 嘉納治五郎がそれを見るとは大して期待していなかったが、それでも、うまくいくようにと願った。

 

 そこに立って待つこと15分―

「そのとき、私の人生で驚くべきことが起きたのです」

 後にフェルデンクライスはそう語った。 一人の日本人紳士が出てきて、彼のために扉を開け、会場の中に入れてくれ、かなり立派な席に通してくれたのだ。フランスの大臣もそこにいた。

 

 そこでフェルデンクライスが座って見たのは、とても奇妙なことだった。

 嘉納はとてもちっぽけな男で年を取っており、顔は皴だらけ。一方、彼の後ろにいた日本大使は、日本人としては並外れて背が高く180cmもある大男なのに、ちっぽけな嘉納のことをまるで神のように扱ったのだ。

 やがて屈強な二人の男が入ってきて演武が始まった(後にフェルデンクライスは、この二人が柔道において最高の技を持つ、並外れた人々だと知る)。

 しかしそのときの彼には、二人のやっていることが、まったく馬鹿げたことのように見えた。一方が倒れ、もう一方が宙に投げられ・・・それは全く何の仕事もしていない、遊びのようだった。明らかにこれは乱取りではなく、あらかじめ打ち合わせた通りに型を行なっているのだ、とフェルデンクライスは思った。

 それから、“ちっぽけな年寄り”の嘉納がその中に入り、若くて強靭な肉体の男たち二人のそれぞれをつかんでは、奇声を発し、単純な動きで投げ飛ばす。

 それを見たフェルデンクライスは出鱈目だと思い、「嘉納さん、あなたは偉大な達人かもしれないが、私の手にかかれば10秒しか生きられないよ」と思った。

 そのときは本当に信じていたのだ。というのも、彼自身には、ナイフや礫を投げて戦闘をしていた実地の経験があったからである。

 

 そのまま演武会が進行し終了すると、人々は立ち去り始めた。

 大臣の招待で来ていた観客たちは皆タキシードや美しい装いで、一方フェルデンクライスは普通の市民。その中に混じりたくはなかったので、後でゆっくり気楽に出て行こうとその場にいた。

 彼はかなり失望していた。見られてよかったが、あのショーから何か学ぶべきものがあるとは思えなかった。

 そして、出て行こうとしたそのとき、突然、誰かが彼のところへやって来て言った。

  「失礼ですが、あなたがフェルデンクライスさんですか?」

 

 そうだと答えると、「嘉納教授が、よろしければご一緒にディナーを、とあなたをご招待しています」と言う。

 ディナーだって?彼は信じられず、冗談だと思った。

「妻が家で待っていますので」と断ったが、「とにかく、どうかここでお待ちくださいますか」と言われた。

 

 すると、人々がまだ立ち去りつつあるところに、一台の大きなロールスロイスがやってきた。嘉納治五郎が最初に乗り、日本大使がそこに立って、フェルデンクライスが車に乗り込むのを助けてくれた。

 嘉納教授と日本大使の間に座ることになったフェルデンクライスは、まるで熱い炭の上に座っているかのように感じた。

 田舎からパリにやってきた若者であるフェルデンクライスにとっては、突然の状況に、何を言ったらいいのか、どうしてよいかも分からなかったのだ。

 彼が連れて行かれたのは、パリで高い地位の日本人が皆行く高級ホテルだった。ホテルに到着すると、また日本大使が彼のために車のドアを開けてくれた。

 

     (下につづく)

 

 

(2)パリの高級レストランにて

 

 フェルデンクライス青年は、パリの高級ホテルのレストランで、嘉納治五郎と日本大使からもてなされた。

 二人の男たちが嘉納やフェルデンクライスの食事の給仕をしたが、実は彼らは、講道館の最高師範である嘉納の高弟たち(永岡秀一、三船久蔵)だった。嘉納はフェルデンクライスに、彼らの並外れたたくさんの話を聞かせた。

 

 食事の後、嘉納はフェルデンクライスに、彼がどんな人間で、パリで何をしているのかを尋ね、彼はパレスチナから来たことを話した。さらに、フェルデンクライスがなぜ、どのようにしてイスラエルに行ったのか、両親はどのような人なのかを尋ね、彼は自分の人生のすべてを話したが、嘉納が彼に何を望んでいるのか、さっぱり分からなかった。

 

 嘉納は、フェルデンクライスがヘブライ語で書いた本をとり、「たとえ私がこれを読めなくても、これを理解できるよ。でも、ここに私には理解できないことがある。その技をやって私に見せてくれ」と言った。

 それはナイフを奪い取る技で、フェルデンクライスが柔術の技を修正して作ったものだった。

 

 嘉納は「これはとても奇妙だ。私は柔道を始める前に、柔術の11の流派を学び、その存在するすべての技を知っているが、この技は見たことがない。君はどこでこれを身につけたのだ?」と言った。 

 そこで彼は説明し、テーブルの上に置いてあった本物のナイフで実演して見せ、ナイフを遠くに投げた。嘉納はまったく表情を変えなかったが、明らかに興味を抱いていた。(「知っているでしょう、日本人は無表情なのです」、後年フェルデンクライスは、その時の嘉納の様子を、自分の弟子たちに語った。)

 

 嘉納はその本を読んで言った。「これはとても興味深い。でも、ほら、ここで君が見せているもの(首の締め技)は駄目だね」。

 それでフェルデンクライスは「なぜ駄目なんですか?」と聞いた。彼の経験上、死なずに抜け出すことができた人はいなかったのだ。

 嘉納が「うーん、駄目だな」と言うので、彼は「じゃあ、なぜこれが駄目なのか、私に見せてください」と言った。

 

 その技というのは、床で相手にまたがり、手で相手の喉を絞め、上着か何かで喉に全力で押し込むものであり、そうなると相手は1分も生きられない。窒息して即、気絶するのだ。

 嘉納が「私にやってみろ」と言うので、フェルデンクライスは小さな老人である嘉納に遠慮して、優しく、ゆっくりとやって見せた。自分はずっと力が強いから、と。

 ところが、嘉納はフェルデンクライスが自分にしていることを、全く気にかけていなかった。

 そこで、フェルデンクライスはできる限りきつく押したが、あろうことか、彼の方が気絶してしまったのだ。自分の身に何が起きたのか、理解できなかった。

 嘉納は「分かっただろ、それは駄目なんだ」と言った。

 

 そこでフェルデンクライスが、何が起きたのか尋ねたところ、嘉納はフランス語で「腕を伸ばして誰かを窒息死させることはできないのだ」と説明した。

 「でも、いつも私はそうしていますし、いつもうまく行っています」と言うと、嘉納は「あぁ。でも普通の人は自分をどうやって守るか知らないからだ。もう1回、やってみろ」と言った。

 フェルデンクライスは本当に気が進まなかったが―というのも、今までそんなことは一度たりともなかったので―「分かりました、もう1回やってみます」と言った。

 

 もう一度技をかけている間に、フェルデンクライスは、嘉納が手を自由にしており、フェルデンクライスが自分の力で自分を窒息させるように仕向けていることが分かった。単に首を絞め、窒息させるのみならず、脳への血流も遮断していたのだ。

 頼みにしていた自分の力とその技で押せば押すほど、相手ではなく、自分自身を窒息させ気絶したことが、突然分かったのである。あまりにも完璧になされていて気づかなかったのだ。

 

 嘉納は言った「君は聡明な男だ。私は必ず、このナイフの技を調べ出そう。でも、君はこの本がとても良いとは言えないことが分かっただろ。だが、とても興味深い」。

  終わったときには、夜中の2時になっていた。

 

 フェルデンクライスは、家で何も知らずに待っている妻に電話をかけたかった。家に帰りたかったし、当時、工学の勉強をしていて学校にも行かなくてはならなかった。数学の試験のための準備も終わっていなかった。電話をかけたいと何度も思ったが、そうする勇気がなかった。

 

 最後に嘉納治五郎は、なぜあのように首を締めなければならないか、その原理をフェルデンクライスに説明した。

 そして、フェルデンクライスのナイフを奪う技を採用し、講道館で1年間試して、なぜそれが使われなかったを調べよう、と言った。おそらくそれが危険すぎたか、うまく行かなかったか、あるいは簡単に防御できたからだと嘉納は考えたが、一度も見たことがなかったので興味をそそられたのだ。

 もう2時半だった。

 フェルデンクライスが嘉納に「タクシーを呼んでいただけますか。もう地下鉄もありませんし、家に帰らなくてはなりませんから」と言うと、運転手付きの大使のロールスロイスがやってきて、彼を家まで送り届けてくれた。

 

  3時にフェルデンクライスが家に着いたとき、彼の妻はまだ起きていて、とても心配していた。演武会場に行ったものの、すべては終わっており、フェルデンクライスもいなかったので、彼女は途方に暮れていたのだ。

 それでフェルデンクライスは、さらに何時間かかけて最初から全部の話を妻にすることになり、結局その夜は眠ることができなかった。

 

     (下につづく)

 

 

(3)嘉納治五郎からの手紙

 

 フェルデンクライスはそのことを忘れていた。良い体験だったが、それでおしまいだと思っていた。

 

 その2日後。日本大使館から彼に電話があった。

 嘉納治五郎がフェルデンクライスに手紙を残していて、日本大使が彼に会いたがっているというのだ。フェルデンクライスは考えた。

 「あぁ、そんなことで、あの晩に続いてまた時間を無駄にするわけにはいかないぞ。見るものは見たんだし、それで終わりにしよう」と。だが、生意気にも答えないというわけにもいかず、電話した。

 すると日本大使は、あれ以来互いによく知っているかのように、とても親しみを込めてフェルデンクライスに話しかけてきた。

 「ねえ、嘉納教授はロンドンに出発しましたが、明日には帰ってくる予定です。あなたを昼食にご招待するように、彼から頼まれたのですよ。というのも、彼はあなたと話したがっていますからね。私も同席するつもりですよ」。

 

 さぁ彼は、今回はどうしていいか分からなかった。

 ふだんの格好で昼食会に行くわけにも行かないので、ネクタイ付きのタキシードのようなものを買ってきた。嘉納教授や日本大使と昼食に行くには、上流社会的な恰好をせねばなるまいと思ったからだが、その後二度とそれを着ることはなかった。自分が猿のように不格好に思えて、好きではなかったのである

 

 そんなフェルデンクライス青年を、嘉納たちは昼食会で、本物の賓客のようにもてなした。彼を最初に座らせるなど、非常に礼儀正しく接した。

「一体、どんな面倒なことに巻き込まれてしまったんだろう?」と彼が思っていると、嘉納治五郎が彼に言った。

 

「ねぇ、私は君がまさに、柔道をヨーロッパに導入するのに成功するような男だと思っている。われわれは今まで3~4回はやってみたものの、失敗している。我々は井田を送り込んだ―君が演武会で見た男だよ。彼が始めたときには大人数だったが、6か月後には誰もいなくなって、閉めざるを得なくなった。他に何人もの名人を送ってやってみたが、うまく行かなかった。

 私は、君にはその素質があると信じているが、君だって君の本にあるようなガラクタを教え続けることはできないだろ。君はちゃんとした柔道を学ばなければならないよ」。

 

 そこでフェルデンクライスは、「何かを正式に学ぶ時間なんてありませんよ、私は大学生なんですから」と言った。

すると嘉納は「われわれが手配して、君が必要な時間を持てるようにしよう。君に柔道を教えるために、達人を日本から送ろう。君が優秀な柔道家になれるよう、私が配慮しよう。そして、彼の助けで君が段位を取ったら、君が道場を始めるのだ。私は君に4巻のフィルムを送ろう。それで君は、私や永岡、横山、三船がしている柔道を見ることができる。それはこれまでに撮影された中で最高の柔道だよ。我々は君の技を審査しよう。もしそれが本当に良ければ、君は講道館の履修課程で柔道の技を身につけた、最初の白人になるだろう。君が柔道を学んでいる間、君に必要なものは何であれ日本大使が手配するから、彼に電話してくれたまえ。君の進歩の助けになると思うことは、何でも彼がする」と言った。

 

こうして、フェルデンクライスは柔道の世界に入っていったのだった。

 

後年、フェルデンクライスは柔道が彼のメソッドに寄与することはかなり大きい、と語っている。下のインタビュー記事

 

 

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以上は、次のウェブ・サイトによります。

 

INTERVIEW WITH MOSHE – The Extraordinary Story of How Moshe Feldenkrais Came to Study Judo 
by Dennis Leri, Charles Alston, Mia Segal, Robert Volberg, Frank Wildman, Anna Johnson and Jerry Karzen assisting during San Francisco training in 1977 

©1977 Dennis Leri et al. 

 

※出典 http://www.semiophysics.com/SemioPhysics_interview_with_Moshe.html 

 

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