物理学者、柔道家モーシェ・フェルデンクライス

モーシェ・フェルデンクライス(Moshe Feldenkrais:1904~1984)は、旧ロシアのユダヤ人家庭に生まれ、14歳のとき、単身パレスチナへ歩いて行き、建国の開拓労働者、数学教師として働きました。

 

 その後、フランスに渡り、パリのソルボンヌ大学で数学と物理学の博士号を取得。ノーベル賞受賞者フレデリック・ジョリオ=キュリー(キュリー夫人の娘婿)の共同研究者に抜擢され、ともに働きました。

一方、パリでは、柔道の創始者・嘉納治五郎とも劇的に出会い、嘉納本人から、柔道のヨーロッパでの普及を託されました(→その劇的な出会いはこちら。高弟をパリへ派遣するなど、嘉納自身の積極的な援助のもと、フェルデンクライス青年は柔道を学び、外国人初の黒帯保持者となったのです。そして共同でフランス最初の柔道クラブを設立(それが今日の、柔道大国フランスの礎になりました)。柔道を指導するだけでなく、何冊もの著書でヨーロッパに柔道を紹介しました。

 

第2次世界大戦中は、ナチスの侵攻を危機一髪で逃れてイギリスに渡り、英国海軍省の対独潜水艦作戦の仕官に。その間、音波探知装置によって、いつくかの特許を取得しています。戦後はイスラエルに帰国して、国防軍の電子部門の初代責任者を務めました。

 

かつてサッカーで痛めた膝が悪化し、医者からは「手術をしても成功の確率は50%で、脚切断の可能性もある」と宣告されましたが、手術を拒否し、自力で再起することを決意します。

そして、科学者の頭脳をもって、ヨーガ、フロイト、大脳生理学、神経生理学、サイバネティクス、言語学、システム論などを、広範囲に探求。それらの知識を、柔道によって得た具体的な体の知恵と統合し、自分自身に歩くことを再教育して、再び歩けるようになったのです。

 

フェルデンクライスが自分の体を実験台にして生み出したこの方法が、評判を呼び、のちに「フェルデンクライス・メソッド」と呼ばれるようになりました。

イスラエルでは、初代首相ダヴィド・ベン=グリオンにレッスンをして彼の健康回復を助けたことで、全国的に知られるようになりました。

このメソッドは、1960年代からはスイスやフランスをはじめとしたヨーロッパ諸国で大いに注目されるようになり、1970年代にはアメリカにも波及しました。

 

かねてより、東洋の哲学や武術に深い関心を持っていたフェルデンクライスは、日本に滞在していた第一秘書ミア・シーガル女史の招きで、東洋の身体メソッドの研究のために来日したこともあります。

欧米のボディ・ワークと思われがちですが、フェルデンクライスと柔道との深い関わりから、ヨーロッパではむしろ日本的なメソッドと思われているようです。